「自由度」を思う

 東海地方にある病院の『創立50年記念誌』をつくらせてもらって
いるのだが、80歳近い、じつに穏やかな創設者の医師の話を
聞いていて、今日のIT技術や交通手段の発達や行政などでの
規制緩和、それに様々なモノがあふれる中で、人間は
本当に自由を獲得しているのか、自由になっているのだろうかと、
改めて考えさせられた。
 昭和30、40年代、交通手段はまだ限られていたのに、
この先生は隣接県にとどまらず、遠く北海道、そして
時には海外にまで患者・家族の求めに応じて「往診」に出かけた。
また、新薬の研究が進んでいると聞けば東京の医薬品メーカーを
訪ねてとことん質問したり、同じ思いの全国の若い仲間の医師と
遅くまで議論を戦わせては夜行列車で帰り、朝はいつもどおり診療を
こなしたというのだ。
 その合間には、徹夜でマージャンしながら一升瓶を何本も空けて
しまったといった豪快な話も。
 翻って現代はどうだろう。モノも情報も、ありとあらゆる便利さの中で、
自ら動くことなく「動いたつもり」になったり、
主体性、自由度を減らしながら「動かされている」のではないか、
と思うことが多々あるのではないか。
 これがまた、成熟社会といわれる、この社会の難しいところだ、
などと考えていたら、いつの間にか便利な新幹線は東京駅だった。