コミュニケーションの難しさ、重要さ

 ますます進む国際化に伴って、異文化間コミュニケーションの重要さと難しさが言われるけれど、これはこの国の中のいろんな職業分野でも起きているようである。

 ある医学部教授の学会での特別講演を取材したときのこと、1時間の持ち時間の間に使ったパワーポイントが百数十枚、20数秒に1枚の割で変わるわけだから、その道のプロではない身には、話の全体像がどうもはっきりつかめない。「もっとゆっくりやってよ」と、少々昔の、講演者の考え方のわかるレジメと、それに釣り合った(と思える)数のパワーポイント(あるいはスライド)による講演を思い出した。
そんなことがあった後、環境学をやっている若い研修者の話と、また別の若手研究者が書いた専門雑誌のエッセーから、これは予想以上に難しい問題だなと感じることがある。
 2人の研究者は、私とは逆に、長いレジメと数の少ないパワーポイントによる発表や講演は、イライラして生理的にイヤだという。また、それと同じように発言中に定義のはっきりしたエクニカルターム以外の、意味や定義がはっきりしなかったり、幅が広い用語が出てくると、これまた気持ちを集中して聞けない、聞く気になれないというのだ。
対話とか交流、コミュニケーションには、まず関心をもって相手と同じ土俵に上がったり、寛容になることが大事であり、出発点であると思うのだが、どうも自分も含めて、今の人間、不寛容なところ、無関心なところが、どうも多くなっているようで心配である。だからこそ、コミュニケーションが大事なのである。